廃業酒蔵9代目 決死の覚悟で復活!^^ [お酒の話題]
今日は久しぶりにお酒の話題にしようと思います^^
極悪新コロや役立たずガースー政権の批判ばかりの記事では、読者の皆様に申し訳ありませんので、今日は一息ついて頂きますね^^
愛知県半田市亀崎町で、21年前に212年の歴史を終えた酒蔵が8代目によって復活することになったという話題なんですよ。
一大決心をして廃業していた家業の酒蔵を復活させたのは、創業家当主9代目の伊東優さん(36)です。
ツギノジダイさんの記事よりお借りしました
画像をお借りしましたツギノジダイさんは、朝日新聞社さんが運営する中小企業の経営者や後継者、後を継ごうか迷っている人たちに寄り添うメディアです。
こちらをご覧ください!
伊東家は地元の名家でした。
伊東家が経営していた伊東合資会社は、天明8(1788)年に創業。銘酒「敷嶋」を醸していました。
昔は敷地内の船着き場から江戸に酒を出荷し、ピーク時は約8千石(一升瓶で80万本)の年間生産量を誇っていたそうです。
日本酒の他にも、みそ、しょうゆの製造販売、薬屋、銀行、保険、不動産なども営む名家となり、地元に広大な土地を保有していたと言いますから、地元を支えてきた企業だったのでしょうね。
ところがご時世だったのでしょう、2000年、清酒需要の低下や他事業の不調のため、8代目の伊東さんの父親の代で酒造業を廃業し、酒類製造免許も返上してしまいました。
その後の伊東家は、不動産の売却益や、駐車場経営の収入で生計を立てていたといいます。
それにしても、9代目は大地主のお坊ちゃまということに変わりはありませんけどね^^
伊東さんは子どものときから名古屋市のマンションに住んでいたそうで、実家のことはあまり気にしていませんでした。
大学卒業後に東京で就職したのですが、年が経つにつれ実家のことが気になり始めたそうです。
そして、少しずつ家業のことを周囲に聞くようになりました。
大地主さんは大変なんですね!誰も住んでいない旧家の固定資産税だけで、家は毎年数百万円を払っていたといいます。
「このままだと、酒蔵も伊東家の旧家も全部無くなるのでは」と不安を感じはじめたそうです。
伊東さんが30歳の時、祖父が亡くなりました。
通夜の前日、実家に残っていた「敷嶋」を見つけ、祖父の傍らで口に含んでみました。
その酒は14年熟成でしたが、それを感じさせないフルーティーさとしっかりとした骨格があって、すごくおいしかったそうです。
そして祖父の横顔を見ながら、このお酒を造ってきた歴史を無くしてはいけない、酒蔵を復活させようと決めたということです^^
並大抵の決意ではないですよね。
9代目は家業のことは何一つ知らない素人さんなのですから。
伊東さんは会社員を続けながら、酒造免許の取得方法や、まったく知識がなかった酒造りの勉強をはじめました。
まさに山あり谷ありの連続だったようです。
そして伊東さんは21年冬から、実家亀崎の地で日本酒を仕込むまでこぎつけたのです。
令和2年(2020年)、伊東家9代目伊東優の手によって、愛知県半田市の敷嶋は復活を遂げました!^^
先ず、準備段階として三重県名張市の福持酒造場さん(銘柄:天下錦)のご協力で、タンク1本の「敷嶋 0歩目」が誕生したのです。
令和3年も福持酒造場さんでタンク2本分の委託製造を行い「敷嶋 半歩目」が^^
令和3年4月末より販売を開始しているそうです。
委託醸造1年目の「敷嶋0歩目」は一升瓶換算で約500本、2年目の「敷嶋半歩目」は倍の千本を仕込み、地元中心の販売にも関わらず即完売でし、委託醸造でのファンが出来たことも支えになっているそうです。
日本酒の業界で生き抜くには、これからもご苦労されることが沢山あると思います。
後継者不足で廃業をする蔵元さんが非常に多くなっていますが、ご先祖さまから引き継いだ蔵を盛り立てて頂きたいですね^^
応援したい蔵元さんがひとつ増えました!
では、ちょっとだけ伊東合資会社の歴史を^^
「敷嶋」とは愛知県半田市亀崎町の伊東合資会社にて製造されていた日本酒です。
伊東合資会社は天明8年(1788年)に創業し、かつては全国に名が知れた銘醸蔵でした。
江戸で酒が不足していた頃、亀崎から千石船の直送にて酒を供給し続け、江戸で人気を博しました。
同時期に人気だった江戸の国文学者本居宣長の詞「敷嶋の大和心を人問ば朝日に匂ふ山桜花」の枕詞から「敷嶋」の名前が生まれたそうですよ!^^
それから、伊東合資会社さんと同じ亀崎町には応援したい酒蔵があるんです。
愛知県半田市亀崎町9丁目112の「盛田金しゃち酒造株式会社」さんです。
銘柄としては「金鯱純米」「金鯱大吟醸」、詳しくはこちらをご覧くださいね^^
極悪新コロや役立たずガースー政権の批判ばかりの記事では、読者の皆様に申し訳ありませんので、今日は一息ついて頂きますね^^
愛知県半田市亀崎町で、21年前に212年の歴史を終えた酒蔵が8代目によって復活することになったという話題なんですよ。
一大決心をして廃業していた家業の酒蔵を復活させたのは、創業家当主9代目の伊東優さん(36)です。
ツギノジダイさんの記事よりお借りしました
画像をお借りしましたツギノジダイさんは、朝日新聞社さんが運営する中小企業の経営者や後継者、後を継ごうか迷っている人たちに寄り添うメディアです。
こちらをご覧ください!
伊東家は地元の名家でした。
伊東家が経営していた伊東合資会社は、天明8(1788)年に創業。銘酒「敷嶋」を醸していました。
昔は敷地内の船着き場から江戸に酒を出荷し、ピーク時は約8千石(一升瓶で80万本)の年間生産量を誇っていたそうです。
日本酒の他にも、みそ、しょうゆの製造販売、薬屋、銀行、保険、不動産なども営む名家となり、地元に広大な土地を保有していたと言いますから、地元を支えてきた企業だったのでしょうね。
ところがご時世だったのでしょう、2000年、清酒需要の低下や他事業の不調のため、8代目の伊東さんの父親の代で酒造業を廃業し、酒類製造免許も返上してしまいました。
その後の伊東家は、不動産の売却益や、駐車場経営の収入で生計を立てていたといいます。
それにしても、9代目は大地主のお坊ちゃまということに変わりはありませんけどね^^
伊東さんは子どものときから名古屋市のマンションに住んでいたそうで、実家のことはあまり気にしていませんでした。
大学卒業後に東京で就職したのですが、年が経つにつれ実家のことが気になり始めたそうです。
そして、少しずつ家業のことを周囲に聞くようになりました。
大地主さんは大変なんですね!誰も住んでいない旧家の固定資産税だけで、家は毎年数百万円を払っていたといいます。
「このままだと、酒蔵も伊東家の旧家も全部無くなるのでは」と不安を感じはじめたそうです。
伊東さんが30歳の時、祖父が亡くなりました。
通夜の前日、実家に残っていた「敷嶋」を見つけ、祖父の傍らで口に含んでみました。
その酒は14年熟成でしたが、それを感じさせないフルーティーさとしっかりとした骨格があって、すごくおいしかったそうです。
そして祖父の横顔を見ながら、このお酒を造ってきた歴史を無くしてはいけない、酒蔵を復活させようと決めたということです^^
並大抵の決意ではないですよね。
9代目は家業のことは何一つ知らない素人さんなのですから。
伊東さんは会社員を続けながら、酒造免許の取得方法や、まったく知識がなかった酒造りの勉強をはじめました。
まさに山あり谷ありの連続だったようです。
そして伊東さんは21年冬から、実家亀崎の地で日本酒を仕込むまでこぎつけたのです。
令和2年(2020年)、伊東家9代目伊東優の手によって、愛知県半田市の敷嶋は復活を遂げました!^^
先ず、準備段階として三重県名張市の福持酒造場さん(銘柄:天下錦)のご協力で、タンク1本の「敷嶋 0歩目」が誕生したのです。
令和3年も福持酒造場さんでタンク2本分の委託製造を行い「敷嶋 半歩目」が^^
令和3年4月末より販売を開始しているそうです。
委託醸造1年目の「敷嶋0歩目」は一升瓶換算で約500本、2年目の「敷嶋半歩目」は倍の千本を仕込み、地元中心の販売にも関わらず即完売でし、委託醸造でのファンが出来たことも支えになっているそうです。
日本酒の業界で生き抜くには、これからもご苦労されることが沢山あると思います。
後継者不足で廃業をする蔵元さんが非常に多くなっていますが、ご先祖さまから引き継いだ蔵を盛り立てて頂きたいですね^^
応援したい蔵元さんがひとつ増えました!
では、ちょっとだけ伊東合資会社の歴史を^^
「敷嶋」とは愛知県半田市亀崎町の伊東合資会社にて製造されていた日本酒です。
伊東合資会社は天明8年(1788年)に創業し、かつては全国に名が知れた銘醸蔵でした。
江戸で酒が不足していた頃、亀崎から千石船の直送にて酒を供給し続け、江戸で人気を博しました。
同時期に人気だった江戸の国文学者本居宣長の詞「敷嶋の大和心を人問ば朝日に匂ふ山桜花」の枕詞から「敷嶋」の名前が生まれたそうですよ!^^
それから、伊東合資会社さんと同じ亀崎町には応援したい酒蔵があるんです。
愛知県半田市亀崎町9丁目112の「盛田金しゃち酒造株式会社」さんです。
銘柄としては「金鯱純米」「金鯱大吟醸」、詳しくはこちらをご覧くださいね^^
2021-08-23 00:00
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