人権侵害がもたらした悲劇を後世へ! (2)
今日もハンセン病を話題にしてみました。
実は、ヘンリー王子とメーガン・マークルさんの挙式について書こうと思っていたのですが、琉球新報さんの記事を読んでハンセン病を取り上げることにしました。
先日の記事はこちらをご覧ください。
ハンセン病(らい病)の患者が国の隔離政策のもとで、如何に酷い扱いをされてきたのか、琉球新報さんの記事を読んで衝撃を受けました。
ハンセン病は、昔は非常に恐れた病気で、主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症です。
現代は、治療法が確立され完治する病気となっています。
わが国では、古くは「日本書紀」にハンセン病に関して記録が残されているそうです。
国の隔離政策とは、1907(明治40)年の法律「癩予防ニ関スル件」、1931(昭和 6)年の「癩予防法」、1953(昭和 28)年の「らい予防法」がそれです。
患者を死ぬまで強制隔離する政策「らい予防法」は1996年に廃止され、2001年に同法による国家賠償請求が認められました。
沖縄新報さんの記事は、沖縄本島で1929年に生まれた男性の話でした。
その男性は、18歳で「父母を楽にさせたい」との思いで、出稼ぎのため南洋諸島の一つ、クサイ島に単身で渡ったそうです。
男性は一生懸命働きました。
太平洋戦争が始まると、船にたけていた男性は現地で徴用されました。
ある日、朝起きてみると腕に赤い斑点が現れていたそうです。
病院に行くと「らい病」と診断されました。
男性は、憲兵に連行され、連れて行かれたのは無人島だったそうです。
憲兵は男性に銃を向け、男性に下船を命じました。
「らいがうつるから、人がいる島に近付くな。お前はここで死ぬ。そのことが国のためだ」
そう憲兵が言い放ったそうです。
それからは、ひとりで水を探し回り、魚を捕る日々が続き、虫や草花など何でも食べたそうです。
そのころ沖縄本島では、「患者狩り」を行われていたそうで、衛生兵が集落を回り、患者を愛楽園へと次々と送り込んでいました。
(愛楽園とは、現在の国立療養所沖縄愛楽園、沖縄県名護市に位置する国立ハンセン病療養所です。厚生労働省所管の施設等機関です)
男性は、数か月後に上陸した米軍に保護されたそうです。
そして、米兵の尋問にハンセン病の英名「レプラ」と一言告げました。
男性は顔を伏せたままだったが「また一人取り残されるのか」、そう思ったそうです。
しかし、米兵が返した言葉は「Don,t worry(心配するな)」だったのです。
男性は、後に無人島から沖縄にもどれましたが、待っていたのは愛楽園への「隔離」でした。
70年余を愛楽園で暮らした男性は、このように話しています。
「人でも動物でもあらん。まるでごみ扱い。私はごみのように捨てられたんだよ」と。
男性は、自分の生まれ育った国に捨てられたという気持ちは、今後も消えることはないでしょう。
国家賠償請求が認められたとしても、男性の一生は戻ってくることはありませんし、心の傷も癒えることはないでしょう。
男性の家族についても同様です。
これは、過去の出来事として忘れてはいけないと思います。
人権を無視した政策が、いかに愚かで悲惨な結果をもたらすのかを後世へ伝える必要があります。
同じような過ちを繰り返さないためにも。
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実は、ヘンリー王子とメーガン・マークルさんの挙式について書こうと思っていたのですが、琉球新報さんの記事を読んでハンセン病を取り上げることにしました。
先日の記事はこちらをご覧ください。
ハンセン病(らい病)の患者が国の隔離政策のもとで、如何に酷い扱いをされてきたのか、琉球新報さんの記事を読んで衝撃を受けました。
ハンセン病は、昔は非常に恐れた病気で、主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症です。
現代は、治療法が確立され完治する病気となっています。
わが国では、古くは「日本書紀」にハンセン病に関して記録が残されているそうです。
国の隔離政策とは、1907(明治40)年の法律「癩予防ニ関スル件」、1931(昭和 6)年の「癩予防法」、1953(昭和 28)年の「らい予防法」がそれです。
患者を死ぬまで強制隔離する政策「らい予防法」は1996年に廃止され、2001年に同法による国家賠償請求が認められました。
沖縄新報さんの記事は、沖縄本島で1929年に生まれた男性の話でした。
その男性は、18歳で「父母を楽にさせたい」との思いで、出稼ぎのため南洋諸島の一つ、クサイ島に単身で渡ったそうです。
男性は一生懸命働きました。
太平洋戦争が始まると、船にたけていた男性は現地で徴用されました。
ある日、朝起きてみると腕に赤い斑点が現れていたそうです。
病院に行くと「らい病」と診断されました。
男性は、憲兵に連行され、連れて行かれたのは無人島だったそうです。
憲兵は男性に銃を向け、男性に下船を命じました。
「らいがうつるから、人がいる島に近付くな。お前はここで死ぬ。そのことが国のためだ」
そう憲兵が言い放ったそうです。
それからは、ひとりで水を探し回り、魚を捕る日々が続き、虫や草花など何でも食べたそうです。
そのころ沖縄本島では、「患者狩り」を行われていたそうで、衛生兵が集落を回り、患者を愛楽園へと次々と送り込んでいました。
(愛楽園とは、現在の国立療養所沖縄愛楽園、沖縄県名護市に位置する国立ハンセン病療養所です。厚生労働省所管の施設等機関です)
男性は、数か月後に上陸した米軍に保護されたそうです。
そして、米兵の尋問にハンセン病の英名「レプラ」と一言告げました。
男性は顔を伏せたままだったが「また一人取り残されるのか」、そう思ったそうです。
しかし、米兵が返した言葉は「Don,t worry(心配するな)」だったのです。
男性は、後に無人島から沖縄にもどれましたが、待っていたのは愛楽園への「隔離」でした。
70年余を愛楽園で暮らした男性は、このように話しています。
「人でも動物でもあらん。まるでごみ扱い。私はごみのように捨てられたんだよ」と。
男性は、自分の生まれ育った国に捨てられたという気持ちは、今後も消えることはないでしょう。
国家賠償請求が認められたとしても、男性の一生は戻ってくることはありませんし、心の傷も癒えることはないでしょう。
男性の家族についても同様です。
これは、過去の出来事として忘れてはいけないと思います。
人権を無視した政策が、いかに愚かで悲惨な結果をもたらすのかを後世へ伝える必要があります。
同じような過ちを繰り返さないためにも。
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2018-05-19 00:00
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